前回は、私がHSPを受け入れた話を書きました。
今回はHSPを自覚して、自分を責めなくなった話を書きます。
自分責めを止める
私がHSPを自覚して、数日が経過した。
最初に訪れた変化は自分を責めなくなったところだ。
今まで何かと私は、
・「なんで私だけ出来ないんだろう・・・」
そんな気持ちで心の中が一杯で、無意識に自分を責め続けていた。
それが、自分がHSPだと自覚してから不思議と責める気持ちが無くなっていった。
そして、私は心(気持ち)と身体の両面から自分を責めなくなった。
気持ちの面として、例えば、人とのコミュニケーションにて
・「会話に上手く入っていけない・・・」
・「人との会話に気を遣いすぎている・・・」
・「次々と話題が変わり、皆が話す会話のスピードについていけない・・・」
こんな状況の自分を責めなくなった。
そして、身体の面として、例えば、仕事終わりにて
・「疲れてヘトヘトヘロヘロになってしまう・・・」
・「疲れすぎて動けない・・・」
こんな自分も責めなくなった。
上で上げた例について、実は、”HSPあるあるな話”だということが分かった。
そして、これら心身の状況はHSP気質の特徴から来ているものだったのだ。
次にHSPの特徴のうち、2つを上げて考えてみる。
些細な刺激に弱い
HSPは些細な刺激に弱い特徴がある。
つまり、様々な刺激をキャッチしやすい
しかも無意識に色々キャッチしてしまう。
例えば、人と話していても、会話の内容だけでなく、表情とか声色、
その場の空気、周りの状況等色々なものの情報が入ってきやすい。
つまり、
・人間関係
・その場の環境
・気温、湿度等
色々なストレスを感じやすい気質であり、身体が疲れやすい特徴がある。
私は、「色々なストレスを感じやすいから身体が疲れやすかったのか」と自身に納得した。
今まで私は、
・「動けなくなるのは怠けているんじゃないか・・・」
と思いつづけ自分を責めていた。
しかし、HSPを自覚してからそれを止めた。
また、身体も元々繊細で、私は小さい頃から季節の変わり目には必ず風邪をひいていた。
大人になっても、気圧や天候に弱かったりする。
些細なことで体調を崩しやすい自分にも納得した。
深く処理する
また、HSPの特徴として、深く処理する気質があるということだ。
私自身、会話の内容を自分の中で掘り下げて考えていることがあり、
これは”深く処理する”特徴が関係している。
私は、グループの会話についていくのがとても苦手だ。
その理由は、人の話をついつい深く考えているところがある
そんな最中に次の話題の話をされても、
切り替えのスピードについていけない。
例えば、グループ間の会話にて、話している場所が1階だとする。
他の人は1階で聞いてる。
私も身体は皆と同じ1階で聞いているが、頭の中が地下2階で話を聞いている感覚
なんだということに気づいた。
だから、1階で急に呼ばれても、頭の中は他の人より階段を多く登って
戻ってこないといけないので、反応が遅れる。
思考の深さを階段で考えると、反応が遅れるのはある意味当たり前だなと納得した。
「深く処理するから会話の反応が遅れてもしょうがない」と自分に納得するようになった。
それから、会話のテンポについていけない自分がいても責めなくなった。
仕方ないと自分を受け入れた。
心身が繊細な自分を受け入れる
私は、自分について、些細な刺激に弱かったり、深く処理するのがHSPの特徴であるならば、
その気質は変わらないなと思った。
仕方ないと思い、HSPである自分自身を受け入れた。
今思えば、小さい時から早生まれで身体の成長も遅くて、運動とか周りの子についていくのが
大変だった。
ただでさえ身体が小さいのに、おまけに繊細で反応が遅くて、周りについていくのがやっと・・・
そんなやっとのことで皆についていくことばかりを経験して、いつの間にか
「自分は人より心も身体も弱い」という大前提みたいなものが出来てきて、
その弱い自分を無意識に自分を責めて生きてきたと思う。
これらがHSP気質が関連していたことに気づいたとき、
「今まで繊細な心身で本当によく生きて生きたな」
と逆に自分を心の底から褒めたくなった。
その結果、自分を責める気持ちが無くなって、かつてないほどに私の心は軽くなった。
また、そもそも私が苦手だと思っていることは、”HSPあるある”なことが多かったと気づいた。
自分でHSP気質を調べたり、多くのHSPさんと繋がって、共感を得て気づいた。
そうした体験から、
・苦手なのは自分だけじゃなかった
・そもそもそういう気質だから仕方ない
と思えて自分を責めなくなったことも大きい。
HSP気質であることに納得したので、自分を責めることを自然と止められた。
私の場合は、自分を責める気持ちよりも納得した気持ちの方がはるかに大きかった。
結果、心がとても軽くなり、責めるより、”労う”、”褒める”といの気持ちが自分に対して
自然と沸いた瞬間だった。